天陽会グループ 幹部会議長
医療法人天陽会中央病院 運営部長
中央クリニック 院長(運営部長)
医療法人天陽会 常務理事
社会福祉法人桜岳会 評議員
厚地 良彦
【略歴】
昭和42年/鹿児島大学医学部卒業
昭和43年/立川米軍病院でのインターン終了
昭和43年/鹿児島大学医学部第一内科入局
昭和44年/New York Polyclinic
Medical School & Hospital
昭和45年/New York Brooklyn
Veterans Administration Hospital
昭和47年/東京女子医科大学付属
日本心臓 血圧研究所入局 循環器病の研究
昭和52年/医療法人天陽会中央病院 勤務
【所属学会・認定医・専門医】
医療法人天陽会中央クリニック
院長、常務理事
鹿児島大学医学部臨床教授
日本内科学会認定内科医
日本循環器学会認定循環器専門医
日本医師会認定産業医
身体障害者福祉法第15条1項の規定
の指定医師(心機能障害、腎機 能障害)
鹿児島県介護支援専門員
日本禁煙学会専門医
東京女子医科大学医学博士
天陽会グループ(医療法人天陽会、社会福祉法人桜岳会、及び関連施設)の総括責任者としてこの組織の原点、昭和22年(1947年)牛根境診療所開設より現在平成21年(2009年)までの足跡をご案内させていただきます。
黎明期(牛根境時代)
昭和21年(1946年)中支より復員した岳父、今村健一は翌昭和22年(1947年)春より郷里の垂水市牛根境に診療所を開設した。終戦当時のこと医療資材も非常に乏しい時代であったが,周囲の要望にも急がされて,始め外来を中心として,後に12床のベッドをもつ医院とした。
当時,牛根は無医地区で医師は健一医師一人のみであった。設備も薬もなく戦地から持ち帰った薬で診療した。患者は、牛根近郊はもとより,輝北町,大隅町,新城,垂水,福山などから山を越え、川を越え、多くの人が訪れた。
終戦直後は肺結核が蔓延し,一家に数名も枕を並べる家庭もあった。入院を必要とする患者も多かったが,今村医院も,日赤錦江病院また県下各地の国立療養所はどこも満床でとても待てない状況が続いており,患者を収容するのに難渋を極めた。このような状態を改善するために,なんとか、結核療養所を建築したいとの願望から実弟の今村健二郎医師が当時の鹿児島大学第一外科の助教授をしていた関係より,設計図をもって医局を尋ね,当時の主任教授内山八郎にその旨を嘆願した。結核の外科的治療は人工気胸法,胸廓形成術,肺区域・肺葉・片肺全切除などがあり呼吸器の外科が花開いていた時期でもあり,内山教授の許可を得て寺田宰医師がその担当に命じられることになった。
【病院建設】
健一の妻の実家の出所である桜島に建設するとのことで,現地を見に行った寺田医師は当時を述懐して『教授の許可が出て,小生が桜島の担当になれと命ぜられて,教授・助教授・健一先生に連れられて,現地を視察に行った。行ってみると全くの僻地であった。袴腰の桟橋を降り,大正熔岩帯を越えているのも不安であった。松林の中に建立するのだと言われる。この様なところにと思ったが,病院の開設・運営を任されたのだからやりがいのある仕事と思った。』と述べておられる。
なお天陽会グループのロゴマークとなっている桜
島をシンボルにした図案は寺田医師のお考えによるものである。
創設期(桜島病院時代)
昭和30年(1955年)3月結核療養所として50床の桜島病院が開設され,ここに医療法人『天陽会』が発足することになった。資金面では母方祖父今村義治や当時鹿児島銀行重役の川添武章氏の協力を得て,また実務面では父方祖父今村失市や事務長となった萩原貞文氏の協力を得てなされた。天陽会の名称は初代桜島院長寺田宰医師の伯父で今村健一の七高時代の国文学の恩師,後に琉球大学の学長になられた新屋敷幸繁教授の命名されたもので,『太陽のように明るく地域を照らし,天地が有る限り続く』という意味があるとされている。
院長寺田宰医師,医員小野寺仰医師(1年後赴任),総婦長石峰(旧姓崎向)礼子,萩原貞文事務長の陣容でスタートした桜島病院は職員の奮闘の結果,桜島町はもとより垂水市の牛根,海潟,垂水などの中心病院と発展し,ベッド数も50床より鹿児島市の中央病院に分割移籍する平成2年10月まで121床にまで増床がなされることになる。
その間胸部外科手術はもとより一般診療まで鹿児島大学医学部腫瘍学講座(旧第一外科)の諸先生方の尽力をもってなされたことは言を待つまでもない。
【大火による病院消失】
寺田宰医師は辞任(昭和35年(1960年)6月)され国立病院に転出され,二代目院長は今村健一の義弟の元県医師会長,現鮫島共立病院理事長の鮫島耕一郎医師が赴任した(昭和35年(1960年)7月)。赴任後2年目に不幸にも桜島病院は全焼した。
当時の南日本新聞によると『昭和37年(1962年)4月7日午前2時50分ごろ炊事場から出火し,同炊事場と本館(事務室,手術室,レントゲン室),結核病棟二棟,看護婦宿舎,倉庫,洗濯場,910㎡を全焼し,4時半ごろ鎮火した』とある。先生はたまたま学会で出張のため列車の中であった。汽車が都城駅付近にさしかかった時,車内マイクで『鮫島耕一郎さん,至急車掌に連絡してください』と放送され,病院の大火を知り急遽鹿児島に帰り,桜島港の連絡も悪いため近くの海上保安庁に駆け込み,特別の計らいで高速艇の提供を受けて病院に帰りついたとの事であった(世知辛い今なら公私混同と非難を受ける?)。原因は炊事用石油バーナーの取り付けが悪かったためとみられている。しかし幸いにも入院患者114名全員無事避難し,火災から約1年後ほぼ旧状に復帰した。
昭和38年(1963年)3月新田則孝医師が九州大学の外科より赴任し第3代院長となった。抗結核剤(パス,ストマイ,ヒドラジッド等)普及により結核の外科治療の下火とともに一般腹部外科,モータリゼーションの中,交通事故外傷,生活習慣病(心臓病,脳血管障害,メタボリック症候群など)の増加に伴う疾病構造変化に伴って桜島病院の役割も変遷していくことになった。
〔療養病床群への移行〕
昭和57年(1982年)結核患者の減少を機に古い結核病棟を閉鎖し,リハビリを充実するためにリハビリ棟を建設し,スタッフの充実を図った。平成2年(1990年)に始まった国の医療費抑制方向から桜島病院においても例外でなく減収,減益,ついに赤字経営となった為に,平成5年(1993年)5月からは一般病床を閉鎖し療養型病床群への移行へ転換が行われた。この転換は鹿児島県下で最初であった。
診療体系
【内科系】
【循環器】
小生は鹿児島大学を卒業後(昭和42年(1967年)),アメリカ空軍病院立川病院でのインターン1年(これがインターン制度の最後である),鹿児島大学 大学院循環器・呼吸器・代謝内科学(旧第一内科)5年,アメリカ留学2年,東京女子医大心臓血圧研究所3年間循環器の臨床を学び,昭和51年(1976年)天陽会に合流することになる。最初の10年間は自分自身の医学的・学問的進歩はほとんど無きに等しく,ただひたすらに毎日を患者の外来,入院患者の診療に追われていた感がある。学会には年に1,2回は参加していたが、何か発表したり,論文を書く事などもすっかり忘れていたようである。
昭和59年(1984年)6月に鹿児島CCU連絡協議会(代表世話人:田中弘允,鹿児島大学第一内科教授)が発足し,中央病院も心臓カテーテル室を整備し,他の6つの病院と共に循環器疾患の救急医療に参加することになった。参加に際してはその当時連絡協議会の実行委員長で第一内科講師であられた,現在、有馬新一クリニック院長先生に大変にお世話になった。循環器疾患のなかでも急性心筋梗塞の患者も年間50-60名,心臓カテーテル検査も年間500例を越すようになり,このような実績から平成元年日本循環器学会認定の『循環器専門医療研修施設』病院として認定されるに到っている。 (注1) 心臓カテーテル検査100症例突破記念としてその成果発表する場を作ったのを機に院内機関誌『天陽会ジャーナル』を年2回発刊することになり、本年平成21年秋には通巻第46号となる。
平成6年(1994年)3月には核医学検査,診断のためにシンチカメラを導入し,心筋シンチグラフィを中心に核医学診断もできるようになり,平成16年(2004年)12月には従来の機種に加えて最新鋭機種ADACFORTEを揃え2台が稼働することになった。
平成15年(2003年)8月には16列Multidetector-row CT (注2) を導入しカテーテルを体内に挿入しなくても冠動脈の狭窄や閉塞が診断できるようになった。これは自分白身にとっては外来診療においてその診断能力を高めることに繋がり画期的な事となった。
このようにハードの面においては高度医療へのStep-upがなされて来たわけであるが,ソフトの面すなわち人的要素においては小生が東京から帰鹿して以来第一内科の金久卓也教授,田中弘允教授,現在の鄭 忠和教授の3代に亘る教授の甚大なご援助があればこそ成し遂げられたことであり,いくら感謝申し上げても申し足りない事で心より感謝するものです。
(注1)平成20年(2008年)の実績は年間1600症例となっている。
(注2)平成21年(2009年)1月より64列へバージョンアップしている。
【消化器】
消化器は鹿児島大学医学部人間環境学講座(旧第二内科)出身の今村進一医師(昭和41年(1966年)卒)が責任者となり活躍されていたが,昭和63年(1988年)6月三男の今村健三郎医師が福岡大学医学部の講師を辞し赴任合流した。それに伴い福岡大学からの医師の派遣及び鹿児島大学大学院循環器・呼吸器・代謝内科学(旧第一内科)の研修医師が消化器病の研修のため派遣されるようになり賑やかな陣容となった。上,下部消化管の検査は勿論のこと,ポリープ切除術,胃瘻造設など内視鏡手術が活発に行なわれるようになった。平成13年(2001年)3月今村健三郎医師の辞任に伴ない,久留米大学卒の伊集院裕康医師が肝臓内科を中心に,また産業医科大学卒で鹿児島大学で研修を積まれた時任大吾医師が赴任され以前と変わらぬ業績を上げておられる。
【内分泌】
糖尿病,甲状腺疾患を中心として週2回火曜日と水曜日に半日ずつ鹿児島大学医学部循環器・呼吸器・代謝内科学講座(旧第一内科)の木村崇医師と池田優子医師が診療を担当していただいている。入院患者,外来患者様に対しての糖尿病教室の開催や,メディカルスタッフへの教育など短い診療時間の合間をみて頑張ってくださっている。
【女性外来】
世界一長寿者になった日本人女性。女性特有の心身の悩みや疾病を女性医師が専門的に相談にのる外来です。日本における女性外来の発祥の地は皆様ご存じかどうか、なんと鹿児島大学病院です。平成13年(2001年)5月鹿児島大学大学院循環器・呼吸器・代謝内科学(旧第一内科)の鄭 忠和教授の提唱による女性専門外来です。それ以来3年間で急速に全国各地に広がりをみせております。月刊雑誌『性差と医療』も『じほう』から創刊され『男女の性差』による医療について有意義な情報を提供してくれております。
私共の外来では吉永順子医師(循環器専門医師)がその担当になり,多くの女性の病気,乳癌や尿失禁と言った男性医師には相談しにくい病気や悩み事の相談相手になっておられます。
【外科系】
【一般外科】
長女婿の新田医師は九州大学の外科出身で桜島病院時代より外科部門は幅広く業績をあげていた。昭和52年(1977年)今村勝洋医師(昭和43年(1968年)卒)が鹿児島大学心臓血管学講座(旧第二外科)を辞任して赴任合流し2人体勢で活動していたが,新田医師が平成4年(1982年)12月に組織を離脱した。その後は第二外科より派遣されている医師とで精力的に仕事をこなしていたが,平成13年(2001年)4月には次世代を担うべく今村進一医師の長女婿の有馬剛医師が九州大学外科を辞任して赴任合流し益々発展していく事と期待していたが、平成20年(2008年)3月組織を離脱され、彼の後輩の高濱医師が鹿大二外科、九大一外科よりの非常勤医師の応援を得て、精力的に外科手術をこなしておられる。
【整形外科】
桜島病院にリハビリ棟が完成したのを機に整形外科の医師の派遣を鹿児島大学整形外科にお願いし当時の酒匂 崇教授,助教授富村吉十郎先生らのご厚意により非常勤での整形外科外来を開設するようになった。診療の幅が更に広がったのであるが,大学の都合により派遣が最近難しくなっていたが,平成15年(2003年)4月より大分大学出身の本庄浩先生が常勤で赴任された。外来診療のみならず
骨折などの手術なども手広く行えるようになり非常に喜んでいたが,残念ながら平成16年(2004年)9月をもって辞任された。しかし平成15年(2003年)7月から鹿児島大学医学部整形外科からの非常勤医師派遣が再開されており,週1日の外来が行なわれていたが,平成17年(2005年)4月1日より久留米大学を平成9年(1997年)御卒業の岩田秀彦医師が常勤医師として赴任され,本庄医師の跡を継ぐことになられた。一人で骨折の手術etcに頑張っておられます。
【眼科】
平成15年(2003年)4月には神戸大学医学部を卒業後鹿児島大学で研鑽を積まれた松元智子先生が赴任されて,従来の内科,外科中心の診療から幅が広がることになった。松元先生は中央クリニック,中央病院だけの診療のみならず,桜島病院での週一回の診療は桜島島民の期待に大いに答えておられ,担当日は他の診療日のほぼ2倍の患者様が受診される盛況ぶりである。
さて社会の医療界をみる厳しい環境の中,高度かつ良質な医療を社会に提供するためには優秀な医療人の確保が絶対的であることは言を待たない。更に病院の環境整備も不可欠の事項であり,財団法人日本医療機能評価機構の厳重な審査を受け,平成13年(2001年)10月には一般病院種別Aの承認を得た。また循環器専門医研修施設,日本血管インターベンション認定研修関連施設,日本外科学会外科専門医制度関連施設などの学会認定を受けている。
天陽会グループにおいては社会の中において医療,介護,保健の分野で社会に貢献していくことが使命であり,自分達の置かれた分野,地域性を鑑みながら,地域の医療機関との病診連携を発展させ,社会に貢献すべく職員共々寝食を忘れて精進する所存です。
最後になりましたが,これまで天陽会グループを支えていただいた多くの方々に深く深く感謝申し上げます。